比叡山・高野山と並び、日本三大霊山のひとつとされ、1200年の歴史がある青森県の恐山。
恐山といえば、イタコ(霊媒師/巫女)を介すれば、
亡くなった人と再開できる場として有名ですが、実はイタコは恐山の菩提寺とは無関係。
イタコは個人業者が出張営業しているだけで、恐山菩提寺の院代を務める著者は、
おかげで問い合わせ対応に苦労が絶えないようです。
また、恐山なら死後の世界がかいま見れそうですが、
実は、死後の世界の有無は「答えない」がブッダ以来の公式見解。
「ある」にしても「ない」にしても矛盾が生じるからだとか。
そして、これまで恐山といえども、幽霊も妖怪も見たことは一度もなく、
要は「心霊」の有無ではなく、どう関わるかの問題だと説きます。
そもそも、魂とは、人が生きる意味と価値のことで、ないと困るもの。人との縁で育てるもの。
そして何より意外なのは、
恐山はパワー・スポットではなく、パワーレス・スポットだということ。
力も意味も『ない』から霊場であって、恐山は、
想いを放出する場所であり、魂の行方を決める場所であり、死者への想いを預ける場所。
みんな何かをここで下ろしていくそうです。
恐山についてこう解読してくれる著者ですが、
今日までの来歴も披瀝されており、それを読んで、私は著者に興味を抱き、
他の著書も手にするようになりました。
永平寺での修行生活20年。
その後も修行を続け、永平寺で死にたかったとのことですが、これは異例のこと。
来る人の多くは住職になることが目的で、2~3年の修行で山を下りるのが通常。
しかし、8年待ってくれていた恐山山主の娘との結婚も後押しし、
道元750回忌(2003年)を機に決意して下山。恐山に入って今日に至っています。
しかし、恐山に来る人の圧倒的な想いの密度と強度に、毎日が驚きの連続だったとのこと。
というのも、永平寺と恐山。実は似て非なるもので、立ち位置は対極。
永平寺は修行の場ですが、恐山は死者供養の場。多様な信仰の器。
「死者を想う人がいて、死者は死んでも人の思考や行動に影響を与える」という現実。
それは「死者は実在する」ということではないか。
そう考えることで恐山への理解が始まったそうです。
また、著者については、「坊さんらしくない」と言われることが多く、
同僚の僧侶から「君には信仰心がない」と言われたこともあり「当たっている」とか。
「宗教に信仰が必要ないとは思っていないが、言葉で信仰の本質に迫りたいと考えている」
ためだそうです。
確かに読んでいても、住職・宗教者というより哲学者・思想家という印象があり、
むしろ、そうした点に、仏教に興味はあるものの、
宗教心が皆無の私が惹かれた理由もありそうです。
ちなみに、イスラム教でも「信仰心がなくても、戒律を守ればイスラム教徒だ」
という説もあるようで、宗教については、いまだ謎だらけです。
tomeさん