「日本人なら日本を愛するのは当然」。最近こうした言い方を耳にします。
しかし歴史を振り返ってみると、
そうした愛国心は、明治政府によって作られたものであり、
愛国心を持つことは、決して当然でも自然でもないことがわかります。
江戸時代までは、住民には日本国という意識はなく、むしろ藩が「国」でした。
しかし、明治維新以降、政府は近代国家をつくるために、
人々に連帯感や忠誠心を持ってもらわないと外国に対抗できないと考えました。
そしてさまざまな政策を実施するのですが、一番大きかったのは義務教育の実施です。
標準語としての「国語」や日本の「国史」が教えられたほか、
教育勅語の奉読と拝礼が行なわれ、次第に愛国心が植え付けられていったのです。
そうした中、日清戦争に勝利したことで、
当初愛国心の大切さを説いていた福沢諭吉が危惧するほどに、
日本人の愛国心は高まり、日露戦争に勝利した後は、
賠償金がない不満などから暴動が起こるほどエスカレートしたのです。
そもそも、一口に愛国心といっても、
ナショナリズム的なものと共和主義的なもの2つあると著者はいいます。
前者は、言語や社会慣習が同じ文化的共同体(ネイション/国民・民族)
へ忠誠心でありフランス革命以後広まったもの。
後者は、古代ローマからある伝統的なもので、政権のリーダーではなく、
共和政の価値観や制度などの政治的理想に忠誠を誓うものです。
国家は、大きな権力をもっていますから、絶えず監視しないと暴走することがあります。
そのとき、国のあり方を批判し事態の改善を図ることこそが、
共和主義的な愛国心であり、真の愛国心なのです。
そう考えると、真の愛国心を持つことは簡単なことではありません。
国がうまくいっているときは、愛国心は問われません。
しかし、うまくいっていないときこそ、愛国心・忠誠心が問われます。
そこで、黙認するか、離脱するか、発言するか。
発言すると、時の政府・国家を批判することになりますから、
弾圧・逮捕されるリスクがあります。
愛国心を持つべきかどうかは、このように道徳的かつ政治的な問題ですから、
無条件に正当だと言い切れないものがあります。
ひとついえることは、ナショナリズム的な愛国心は、
群れることによって初めて醸成されるものですが、
共和主義的な愛国心なら、ひとりでも持てるということです。
その結果、どう行動するかは個人の覚悟が問われますが、
本来の愛国心は、そういうものだと十分納得・理解できました。
tomeさん