自分の幼少期には、“人類みな兄弟”といった
標語のような言葉が、世界平和と結びつけて
語られることが多かったような気がします。
とはいえ、実際きょうだい間でも問題は
起こりうるもので、最後まで解決できない
場合すらある。
歴史が示す通り、民族的に同じルーツを
持ちある意味“兄弟”のような国家同志ですら、
平和が損なわれてしまうことがあった。
それで自分なりの結論としては、お互いが
家族のような愛情で結ばれているだけでは、
平和の土壌にはならないのではないかと
思っています。
(旧約)聖書には、ヤコブという人物の
悲喜交々が描かれている。
(例:創世記25章から50章)
彼は双子の弟で、兄のエサウとの間で
大きな問題を抱え込んでしまう。
エサウの恨みを買う形になってしまった
ヤコブは、自分の命すら危ぶまれる状況下で、
逃亡生活を強いられる。
しかし、およそ20年後エサウと
会わければならなくなる。
神をも恐れないエサウとの再会
神を畏れるヤコブは神にそのため熱烈に祈った。
ヤコブは祈っただけでなく、
実際的な備えも怠らなかった。
たくさんの貢物を準備し、その頃には
大きな家族を従える族長だったヤコブが
家族の前で兄に7回もひれ伏すことまでしたのだ。
神の祝福により、平和裏にこのシーンは完結する。
これは実際に聖書の詳細は記述を読むと、
まるで映画の感動シーンです。
でも教訓もあるのではないかと思っていて、
お互いに物事を平和に解決するためには自ら犠牲を
払うべきこと、加えて仲直りのためには
様々な取り組みが必要だということです。
力を行使した方法は絶対に避けたいという強い願い
(平和への愛とも言えるだろう)が必要で
あることも教えてくれているのではないでしょうか?
ひつじさん 47歳 女性