齋藤孝氏の「読書力」曰く、大学に進んだにも関わらず「読書を強制しないでください」という学生がいるらしいが、勉強の世界は延々と関連書を読んで知見を高めていくものであり、高校無償化に続き大学も無償化してほしいというもの少なからずいるなかだが、それでもこういった方々は大学などいかずに刺身の上にたんぽぽでも乗せていて欲しい。ネットミームでありそのような専門職はないが。
学ぶ意欲がないならおとなしく最底辺の仕事をして、高卒や中卒だからと現場経験の長い方々に対して指図し高給を貪る立場にはならないでいただきたいものだ。
しかしながら昨今の人々は文字を見る機会だけは果てしなく広がっている。
Twitterが流行ったのは長文を読み解けなくても無関係な話でも特定の単語に反応してフォローしあっていない人に対しても感覚的に話しかけられることではないだろうか。
つまり関係あるようで全くない。
知人同士なら楽しいものだが、文章を読み解くという意味ではよろしくない。
実体験として、契約書を30代ほどのサラリーマン風の男性に書いていただいたところ、虫がのたくった字を書いたのでお帰り願った。
こちらは契約書を読む気がなく自身の名前すら真面目に書かない方と契約せずとも困らないからである。
すると彼は「日本語も読めないのか」とカスタマーハラスメントに及んだが、結局のところ彼は自分の名前の筆順すら知らないまま恫喝とカスタマーハラスメントで今までの人生を乗り切ってきたと判明した。
それなのに携帯は使えるのである。
なお、筆順から教えることで契約に至った。
彼のような人物は意外と多いのではないだろうか。
親戚の赤ちゃんも言葉はわからないが『どうぶつの森』はプレイしている。
電車の中でライトノベルを読む学生も、「中身は読まないし絵だけ見ているがアニメを見るため買った」とおっしゃっている。買うだけ殊勝な心がけである。
私は彼らが稀有な事例だとは思っていない。
我々は全くもって会話もしていなければ相手の文脈を読む必要もない生活をし、ただ刺激に反応し自己に向かい合う時間をひたすら現代商業主義に奪われている。
人間は「ドラえもん」のミニドラみたいに「ドラドラ」だけでも意外と会話できるし、なんなら赤ちゃんや幼児相手にそれを試した方なら案外何時間も楽しめると知っているだろう。
絵本「もいもい」を己の赤子と楽しみ、深夜に「もいもい」と叫んで踊る我が子に困惑する親御さんもいらっしゃるらしい。
こえという肉体の動き、他の個体に対する反応にことばを加えるのは思考である。
思考はある意味雑音である。
そして人間性なのではないか。
声には聞き手の情感を揺るがす力がある。かつて歌は言葉を通して意味を伝達することから聞き手の言語能力がフィギュアスケートの採点に影響を及ぼすと考えられた。
しかしながら言語的に意味のない歌詞は世界中に存在する。
文字が発達せず踊りで表現する文化すらある。
『ことばから意味というものが脱落したとき、そのときにはじめてわたしたちは声を聴く』(鷲田精一)
このほとばしる想いも苦しみも、愛すらも意味なんてない。あえて黙ろう。
その方が人を傷つける必要などない。
そのような方もいるのではないだろうか。
もっとも黙っていられるほどこの世は甘くなく、なんらかの表現力がなくば生きづらい。
結局SNSでは『こえ』はあれど『ことば』には至らない。それでもいいのだ。
このような時代にて、酔狂に読書のように卑小な自己に対してあえて向き合う孤独な時間を楽しみ、すでに亡くなった著者や遠く離れた意見のものと自分の立場をすり合わせる言葉を磨く読書を楽しめと言う方が無理なのかもしれない。
とはいえ、本を読めばいいわけでもないらしい。
一日に何冊も読んでは捨てている人を私は知っているが、彼は女癖が悪かったり資格が取れなかったりおそらく本を読んでも何も得ていない。
かくいう私も本は好きだが気が短く、本を読むことで他人の人生を擬似的に体験するという能力が欠落しており、よって他人に対して慈悲の心がない。
今でも音楽や花を尊ぶ心がない。
それでも読書を他人にすすめる個人的成功体験を述べれば我が弟に対してだ。
彼は本に対して「決まりきった答えに向かって順序正しく読まねばならない」と誤解していた。
よって当時流行っていた双葉社のゲームブック(我が家は漫画やテレビゲームを買えない家だった)を彼に朗読した。
桃太郎電鉄の桃太郎電鉄ロボ合体シーンを朗読したのである。
もちろん原典にはロボットなど存在しない。にも関わらず原作ゲームにはない桃太郎電鉄ロボの解説画像まである。なんだこれは。
大爆笑した彼は家中にあるゲームブックを読み出した。
この経験からすると「読みたくない」ひとの意見を聞きその反証となる本を与えて共に体験すること、そして何より楽しみ合うことが大事なのだと思います。
あるいはいっそこえを合わせて「もいもい」と話し合い、あるいは歌やダンスを楽しみ絵を見て言葉にできない感動を共有すれば良い。
本を読まねば出世できないなら読みたくないし学徒でありながら大学生活もしたくないという心理も理解できないわけでもないのだ。
しかし本には、そのような人に対してもとびらを開いている。
私たちは一生に一度誰かがそのとびらを開くときともに歩める光栄を受けることができればそれで良いのではないか。
『大志を抱いて書き始めよ!
だが汝には
一行しか書く時間はない、もっともそれで人生は上等なのだ
罪なるは失敗などではなく、低い志にある』(『アンの愛情』に引用あり)
今は全てわからなくていい。
いつでも本を開けるように、開いてあげられるよう誰かに寄り添っていきたい。
長々と失礼致しました。
鴉野 兄貴さん
自作小説書いたり技術系ニュースbotを運営。
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大出 光貴 (著), 橋爪 啓 (著), スタジオ ハード (編集) 双葉社 1988/12/1